第9回
放射線教育は放物線を描く虹をかける
教授
大谷 浩樹
この世で一番美しく力強い放物線は、柔道家古賀稔彦の一本背負いである。バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストである彼は、令和3年3月24日にがんのため53歳で死去した。筆者は大学時代に古賀氏と親交があり、五輪出発の前には手を取り「大谷さん、必ず金メダルを取って来ますから。」と誓ってくれた。その手は武骨で厚く、でも優しく温かかった。彼は言わずと知れた平成の三四郎と呼ばれる真の柔道家であり、一本背負いで相手を投げて、投げて、金メダルを獲得した。苦しい練習もあっただろう。一本を取る柔道よりもポイントを稼ぐ柔道を勧められたこともあっただろう。彼は相手を投げ、勝負の放物線を描き続けたが、決して自分自身の信念は投げ出さなかった。
文部科学省では、中学校、高等学校において平成20年から武道とダンスを科目として必須にしている。ややもすると、武道において相手を投げる技術を教え、ダンスにおいてステップを身につけることを優先してしまう。しかし、教育の目的は他にある。武道は相手を攻撃したり防御したりする術を学ぶだけではなく、投げた相手の痛みを知り相手を敬う気持ちを持つことである。そして、ダンスは自分のステップや表現を高めるだけではなく、仲間と呼吸を合わせること、コミュニケーションを豊かにすることである。ここに古賀氏の信念の正しさを見ることができる。教育とは何か。何を教えるのか。
さて、放射線教育についてはどうか。平成23年度から中学三年生の理科で放射線教育が再開されることが決まっていた。実に30年ぶりの期待された復活のはずであった。そう、奇しくも同年の3月11日に東日本大震災が起こり、原発事故は放射線教育の再開を知っていたとは言えないが、教育の視点は大きく影響を受け、原子力の安全管理や放射線災害時の心構えなども教育に加わっていった。人々は放射線教育の賛否を謳い、大人は子どもが身につける放射線の知識を注視した。
文部科学省による放射線副読本では次の五つの項目になっている。
①放射線の基礎知識
②人体への影響
③測定器の利用方法
④放射線事故時の心構え
⑤放射線の利用
とても大切なものばかりである。
基礎知識では放射線の種類や性質を学び、子どもたちは知ることの魅力を純粋に感じている。見えない放射線を測ることで存在を明らかにできる実習に高揚し、測定器の利用方法を身につける。出前授業ではこの時の子どもたちの積極性に圧倒されることもあり、放射線教育が机上のものだけでないことがわかる。ここで見えて来た道筋が探求型教育であり、生徒が自ら課題を設定して解決に向けて意見交換する問題解決力の向上が求められてきた。福島県環境創造センター交流館・コミュタン福島、教育ディレクターの佐々木清氏は次のように生徒たちを導いてくれる。まず、小学生は探求の過程に沿った体験研修から課題設定に入っていく。中学生では探求的な活動の実施と拡大から課題選択ができるようになり、高校生では課題研究の支援体制の確立がなされる。放射線教育での意見交換は決してディベートではなく、お互いを尊重した多様性の教育でなければならない。どちらが良い悪いではなく、放射線への不安か安心かの二択ではない。放射線を学ぶ生徒たちに放物線を描く虹をかけ、互いの気持ちをひとつに七色の項目を学ぶのである。先に記した放射線副読本では虹の五色を学んでいるため、あと二色を学んで七色の虹をかけることができる。
それは次の二色である。
⑥放射能心理
⑦放射線インフォデミック
放射能心理とは、放射能や放射線によって人の心がどのように影響されるか。そして、放射線を学ぶことで精神的な安定をもたらすことである。放射線の利用を学ぶことで公衆被ばくや医療被ばくがあることを知り、今まで気にしていなかった被ばくから不安の気持ちが起こることになる。放射線の原理原則の知識だけが身につくのではなく、人が関わる限り心理的な変化が現れることを理解した方が良い。この放射能心理の特徴は、個人の差が大きいことと理解と不安が繰り返されること。そして、自分の不安を隠して周囲に同調してしまうことである。このことを子どもの放射線教育の時から配慮した方が良い。
七つ目の色は放射線インフォデミックである。インフォデミックとは、ネットやSNSなどで噂やデマも含めて無差別に情報が氾濫し社会に大きな影響を及ぼす現象のことである。現在はもちろん今後もさらに拡大し我々の生活に浸透してくのはSNSなどでの情報であるが、放射線に関して検索すると「放射線でがんになる」「風評被害」など少数でも影響力のある発信が拡散されている状況がある。放射線のことを学んだ生徒がもっと知りたくて検索したとき、どのような情報に晒され学習的観点から外れてしまうのかを知る必要がある。
この二つの項目を教育するために創造型教育が実施されることを期待する。創造型教育は現状を観察し、様々な事柄から多くを創造して仮説を立てて学習していくことであり、問題発見能力を向上させる効果となる。問題解決力が大切なのは周知の事実であるが、放射線教育において特に放射能心理と放射線インフォデミックについては、どこに問題があり、何が不安材料になっているかを発見することが重要である。
放射線教育は放物線を描く虹をかける。最後に断っておくが、放射線は決して放物線状に進むわけではない。反跳と散乱を繰り返して進むのである。行先が変化しても、それは放射線の信念がぶれているのではない。多くの原子と出会い衝突し、投げ飛ばされた相手の気持ちを思いながら進むのである。柔道家は天国でも語っているはずである。「私は一本背負いで相手を投げますが、決して自分の信念は投げ出さない。たまには寝技もありますが。」と。